10年後の今こそ振り返る―3.11東日本大震災 当時の状況とこれから

地域

ここ10年の間に、日本では非常にさまざまな災害がありました。
広島の土砂災害、熊本の地震、北海道の地震、全国での局所的な豪雨や台風などは皆様の記憶にも残っているかと思います。
しかし、そんな中でも思い出すと鮮烈に蘇るのはやはり「東日本大震災」ではないでしょうか。

今回は、渦中の福島県であの大災害を間近で感じた私から当時の状況を少しお話させていただきます。10年目の今年、あの出来事を振り返りながら、改めてこれからの未来について考えてみましょう。

2011・3・11大地震そして大津波

2011年3月11日、当時私は福島県いわき市の太平洋から500mほど離れた場所の会社に勤務をしており、東京の会社と太陽光の設置工事についての打ち合わせを電話で行っていました。
14時46分、経験したことのない地鳴りとともに通話が途切れ、次の瞬間、建物が左右に激しく揺れました。揺れが収まるのに長く時間がかかったことを記憶しています。揺れが収まってから建屋の外へ避難しました。

避難したと同時に2度目の地震。水道管は破裂し敷地内の至る所から水柱が立ちました。
さすがの私も尋常な状況ではないと感じ、携帯、固定電話で妻への連絡を試みましたが通じず、急ぎ自宅へと車を走らせました。
通常ならば15分程度の距離を1時間かけ自宅へ戻り、妻と娘の安否を確認しました。のちに妻から聞いた話だと、娘が小学校から帰宅し玄関の扉を開ける直前に1回目の地震に遭遇したとのこと。下校途中でなく幸いでした。

安否確認後、急ぎまた会社へと車を走らせました。通勤路は内陸側の道路のため、この時私は大津波が押し寄せてきていたことは知りませんでした。

会社を目前にして、私は悲惨な現状を目の当たりにしました。会社が完全に津波に飲み込まれていたのです。
途中で車を置き、腰上まで水に浸かりながら、逃げ遅れた人がいないか確認に会社へ戻ると、2名が逃げ遅れており、ずぶ濡れの状態でデスクの上に立っていました。3人で手をつなぎながら水の中を歩き車まで戻り、それぞれを自宅まで送迎しました。

 

次に私は、母が一人で生活している実家へ車を走らせました。実家は目の前が海でした。

けれど、移動中に母とは連絡が取れ、安否の確認はできていました。
すでに日が沈み、いつもは街頭や家からの明かり、信号など、さすがの田舎でも多少の明かりがあるはずが全くの暗闇。道路を走行する車もないのでなおさらでした。道路には地震と津波で崩壊した家屋の瓦礫があり、実家までたどり着くのに困難に窮しましたが、なんとか到着。

静寂と暗闇の状況の中、車のヘッドライトで実家の方向を照らした瞬間、視界に飛び込んできたのは自分たちが出入りしていた玄関に小さな魚船が突き刺さっている光景でした。

涙が勝手にこぼれてきたのを記憶しており、あの光景は今でもしっかり覚えています。

危険という意識は全くなく、中への侵入を試みるも断念。避難していた母の顔を見て安否は確認。
再び急ぎ自宅へ戻り、妻と娘の顔を見てやっと一息つけました。帰宅後、不安からなのか娘が私からほとんど離れずにいたことを、今では考えられないですがしっかり覚えています。
しかし、震度5以上の余震は何度となく発生する中の一夜となりました。

(2021年現在の実家跡地)

(2021年現在の実家跡地)

これが3.11―あの日の私の現実に起きた出来事です。

この時は、これ以上の災害が降りかかって来ることなど予想だにしていませんでした。

福島原発1号機・3号機の爆発そして避難生活

震災の1か月前、夕飯時に娘が学校で原発の勉強をしたことを話し、妻がいわき市の近隣に福島第一原発と第二原発があること話し、事故があったらとても危険な建物だということを説明していました。それがまさか現実になるとは・・・・・。

11日の夜、幸い我が家は停電が起きていなかったため明かりもあり、暖もとれていました。私は疲労からか、自宅に着くとすぐに寝込んでしまいました。
しかし、夜中に妻に起こされテレビのニュースを見て、原発が爆発する可能性があること知り、車で東京方面へ避難すること決断し、必要最小限の荷物を準備し移動開始。高速道路は封鎖されており、ただひたすら国道6号線を迂回しながら南下を続けていました。ナビのテレビで情報を常に確認しながら・・。

3月12日15時、1号機水素爆発発生。当時は、茨城県水戸市でガソリン10Ⅼを入れるのに行列に並んでいました。妻の判断は正しかった、100㎞ではありますが原発からの距離を確保できたのです。
当日は水戸市の避難所で一夜を過ごし、13日、千葉県の白子へ移動を開始。高速等を利用し、13日の夜中に到着。ホテルにチェックインする前に、食料を調達するためにコンビニへ入ると、ここしばらく見ていなかったお弁当やおにぎりがあり、購入しホテルへ向かいました。

明るく暖かい部屋。暖かいお風呂。今まで当たり前のことが本当にありがたく思えた瞬間でした。もちろん、テレビでの情報は常に確認していました。

3月14日、遅めの朝食をとりニュースを見ていると、11時に今度は3号機水素爆発。
千葉県白子まで約250kmのこの距離がどれほどの安心感をあたえてくれたことだろうか。

 

テレビからの情報や、携帯のネットニュースの情報に一喜一憂する時間が続きました。
そんな中、外資系の企業が東京起点を大阪へ移転するとの情報が流れ、関西への避難を決意し、深夜バスで一路大阪へ移動。梅田に到着したのが朝の6時過ぎでした。土地勘がなく、ビジネスホテルを確保するために奔走しましたが、お彼岸の連休と重なりどこも空いておらず。

『神戸まで行ってみよう。震災を経験した都市ならばなんとかなるかも』と、淡い期待を寄せ、神戸で一番栄えている町を聞き、三ノ宮まで電車で移動。駅前の大手チェーン店のTホテルをひとまず確保しました。
そのまま私は、借住居が準備してもらえるかの確認をするため役所へ向かいました。担当窓口を紹介してもらい窓口へ向かうと、新聞記者たちに囲まれ矢継ぎ早に質問攻めに合いました。

『どこから来たのか?どのような方法でここまで来たのか?福島の現状はどうなっているのか?』

『手続きを優先させてください』とかき分けて手続きをし、2日後に市営住宅を準備していただけるとのことで、それまでホテルで待機してくださいとの回答をいただきホテルへ戻りました。
役所からホテルまで戻る道中、三ノ宮駅前は何事もなかったかのような日常がそこにはありました。公園で遊ぶ子供たち。買い物を楽しむ人々。これが被災地から700㎞近く離れた場所の現状なのかと痛感しました。

2日後、用意していただいた住居へ移動。布団とこたつ、フライパン、鍋など必要最小限の物は用意していただけました。
この時、ようやく落ち着ける空間ができました。ただ、情報を確保するためのテレビがなく、近隣のリサイクルショップを梯子し確保。それが3月25日のことでした。

次に私は、いわき市には戻れないと判断し、単独で夜行バスで東京へ移動し首都圏での住まいと仕事を探すことに奔走しました。色々回りましたがなかなか見つからず、東京タワーが目の前にあり最先端が曲がっていたのを見ながら、港区区役所前のベンチで途方に暮れていました。
その時に、ある人のことを思い出し連絡し、現在の勤務してる会社を紹介していただきました。その方と社長には感謝の気持ちを言葉では語りつくせないほどの思いです。

その後、私だけ単独横浜に移動し、娘の学校の選択や住居等の選択を行い、娘の転校手続きなどを経て、家族3人での生活を再スタートさせたのが2011年5月初旬になります。
余談ですが、この1か月で私の体重は10㎏も減っていました。

大まかにはなりますが、これが震災から横浜への移住までの真実になります。
この後、しばらくの期間、横浜での生活に関しては風評被害やいじめとの闘いと、いわき市の残作業ため週末に往復の日々の繰り返しとなります。
あの震災時に起きた出来事は10年経過した現在でもはっきりと記憶しています。
話は尽きませんので、今回は大筋のお話でとどめさせていただきます。

10年後の現在とこれから

昨年から日本、いや、全世界がコロナウイルスにより日常から逸脱した生活を余儀なくされた状況が続いています。目に見えない恐怖との闘いです。

不謹慎な言葉になるかもしれませんが、我が家には10年前の経験(免疫)があります。
当時も、放射能という目に見えない恐怖との闘いを、福島県人は他県の方たちより厳しい状況と向かい合いながら戦ってきました。
地元の親戚の方からの心無い連絡の中には『被曝するのが嫌で横浜へ移住し、いわきを離れて10年後にコロナで大変だねー』などの言葉も。意地でもコロナにかかるかって感じです。

コロナももちろん大変なことですが、福島の災害はまだ継続しているのです。
汚染水を太平洋へ流す案。こちらは10年近くかけてようやく通常の漁ができそうになっている漁業関係者の皆様はどう思うでしょうか?10年かけてようやく試験操業から次にステップアップしようとしているこのタイミングにです。
テレビ番組などで被災地訪問なる番組の放送をよく目にしますが、あまり福島への訪問番組は目にしません。宮城県・岩手県への訪問が多く感じるのは私だけでしょうか。福島は危険だと感じているのではないでしょうか。

原子力発電所は、それだけリスクの高いものだということを忘れてはいけないと思います。
諸事情により、再稼働しなければならない自治体の判断もわからなくはないですが、想定外の事態が起こった時のことも忘れずに検討していただきたいです。実際に想定外が起きているのですから。

現在、私は再生エネルギーの仕事に携わっています。娘や孫の世代に安心して生活のできる日本、地球を残すのが我々世代の責務と思っているので、やりがいのある仕事です。

10年前の事故から、福島県人をはじめ被災した各県は頑張って復興を進めて現在まで来ています。
その姿を思うと、コロナは全世界が対象の問題ですが、皆が『ONE TEAM』精神で頑張れば必ず乗り越えることはできるはずです。

『がんばっぺ福島。がんばっぺ日本』

関連記事

お問い合わせ

運営会社

詳しく見る